電気化学におけるレドックス電位についての基礎的な内容です。
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レドックス電位について(2)フェロセンについて
前回、フェロセンのシクロペンタジエニル基の水素をアセチルまたはメチル基に置換するとレドックス電位がどのように変化するかについてふれた。今回はフェロセンにまつわる話をしよう。
フェロセンは安定な化合物(黄橙色)であり、一電子酸化を受けたフェロセニウムカチオン(青色)も安定である。その間の電子移動速度は極めて速く、化学的にも電気化学的にも可逆な系である。有機溶媒系におけるレドックス電位の内部標準として推奨されているばかりでなく、多種の誘導体(ビスフェロセン、フルバレン、デンドリマーなど)や多様な用途(触媒、センサー、メディエータ、分子タグなど)が展開されている重要な物質である。中心元素の鉄を他の遷移金属で置き換えたものはメタロセンと呼ばれ反応中間体や触媒として有用である。
フェロセンは1951年ころに数か所で独立に見いだされ、構造について論争を経て間もなく、ウイルキンソンらによりㇱクロペンタジエニル基が鉄をサンドイッチする構造であることが確立された1)。特異な構造と性質によって注目をひき、有機金属化合物の今日の隆盛の先駆けとなった。当時は水銀電極を用いるポーラログラフィーの時代であり、レドックス電位は過塩素酸塩を支持塩とする水-アルコール混合系で滴下水銀電極を用いて測られた(SCEに対して0.31V)2)。水銀電極自身のアノード溶解が起こる電位領域でよくも測定できたなというのが偽らざるところである。
純粋な有機溶媒系におけるレドックス電位の精密な測定は1959年に行われた3)。カンサス大学の大学院生3人がイースターの短い休みに仕上げた成果であった。主導したのはテッド・クワナであり、他の2人はそれぞれ有機化学系の別の研究室に所属する院生であった。彼ら2人が、フェロセンと幾つかのフェロセン誘導体や、ルテノセン、オスモセンの合成と精製を担った。
当時、サイクリックボルタンメトリーは現在の様にポピュラーではなく、クワナが採用したのは、一定電流を流してその時の作用電極電位の時間変化を記録するクロノポテンショメトリー(CP)であった。CPは現在では使われる機会が少ないが、電極電位のフィードバック制御の必要がなく、電極電位の記録さえ正確にできれば十分な、比較的簡単な手法である。遷移時間からレドックス電位を求められる。
最初は、クワナは水銀電極を用いたがバックグランド電流が大きすぎて、白金電極に代えた。彼の指導教官は固体電極のパイオニアとして高名なラルフ・アダムスで、作用電極を白金に代えるのは当然の成り行きであったのだろう。
興味深いことは、クワナの論文にはいずれの学生の指導教官の名前がないことである。この辺の逸話を含んだ事情はビル・ガイガーのレビューに詳しい4)。最近、クワナに尋ねたところメールが返ってきた。一部、引用すると “We did most of the work over Easter holiday. The faculty graciously let us publish without their names on the papers. Generous and unusual, needless to say.” とある。レドックス電位が置換基に依存して制御できるフェロセンの重要性を示唆している点でも興味深い論文である。
1) Wilkinson,G., J.Am.Chem.Soc. 74, 6146, & 6148, (1952)
2) Page,J.A., Wilkinson,G. J.Am.Chem.Soc., 74,6149,(1952)
3) Kuwana,T.,Bublitz,D.E., Hoh,G. J.Am.Chem.Soc., 82, 5811, (1960)
4) Geiger W.E., Organometallics 26, 5738 (2007)